加山雄三

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加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年〈昭和12年〉4月11日 – )は、日本の俳優、シンガーソングライター。

タレント業のほか、音楽家としてギタリスト・ピアニスト・ウクレレ奏者、画家としても活動している。

本名は池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家として弾 厚作(だん こうさく)のペンネームを用いる。
神奈川県茅ヶ崎市出身。血液型A型。

父は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子(池端具子)。妹は池端亮子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。

神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷の家に生後8か月まで、次の東京都大田区田園調布には1歳9か月までいた。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、子煩悩な父・上原謙は息子のために、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎市へ引っ越した。加山が覚えているのは、この茅ヶ崎の家からである。海と茅ケ崎駅の中間辺りにあって平屋の日本家屋だった。お手伝いさんは必ず2人はいた[2]。茅ヶ崎市の実家には31歳で結婚するまで過ごした。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校を卒業。高校受験の季節になり、志望校として都立日比谷高、早稲田実業、慶應義塾高三校の学校見学に行き、プールが日吉と三田に二つあること、なんとなく伸び伸びした校風が自らに合っていることを理由に慶應高校のみを受験することにした。受験校を決めてからの半年間は、英数国主要3科目にそれぞれ家庭教師を付けていたことに加え、例えば一日に英単語200個を暗唱したように猛勉強し、合格をつかみ取った。慶應高時代にはボクシングやバンドなどを始め、また冬の季節になると海から山に興味関心が湧き移りスキーを始めた。後の慶應大学時代の1959年には、スキーで念願の国体蔵王大会に出場した。

慶應義塾大学法学部政治学科卒業後の1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍。

1961年、「夜の太陽」で歌手デビュー。NHK『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。
ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく/ドン・コサック)であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している。

1964年6月10日、日刊スポーツに『波乗り日本第一号 加山雄三 サーフボード作る』と載る。

1965年12月に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された「君といつまでも」は350万枚の大ヒットになり、1966年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の「霧氷」が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まる。

俳優としてはそれまでの宝田明に代わって東宝の若手看板スターとして大活躍、娯楽映画の『若大将シリーズ』が大ヒットし代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演している。ブロマイドは女学生を中心に爆発的な売れ行きを記録した。

1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業[6]。1967年に運営会社「日本観興開発(後に株式会社パシフィック・ジャパンに改称)」取締役に就任。しかし、パシフィック・ジャパンは1970年3月に23億円の負債を抱え倒産、ホテルは18億円で売却され、監査役だった加山は、父の上原と共に巨額の債務を抱えた。加えて、女優松本めぐみとの結婚が世間を騒がせ、1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の時代を迎える。ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと追い込まれるが、10年で完済した。

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